学部4年
赤澤 空|AKAZAWA Sora
流水の庭
-----H4500×W9000×D12000(mm)
煉瓦、コンクリートがら、水-----
風景をつくるということに取り組んだ。 風景とは場所の上に浮かんでくるものであり、 その場所を日常の視点とは異なる見方で捉えることが出来れば そこにある一つの風景が生まれてくるのではないだろうか。 風景をつくるそれは場所を完全に壊すことなく、 その場所の見せ方を変えるという操作である。 ただそれが単なる装置で終わってしまってはいけないのだと思う。 僕は場所に対して自分のイメージをぶつけ、そこに一つの画を描くという方法を選んだ。 そのような考えに行き着いたのは、僕が建築学科で空間設計を学ぶ一方で油絵を描いてきて、 自分の中で建築と絵画をどこかで繋げたいという思いがあったからだ。 僕がこの場所に与えたイメージは水だ。 常に流動しながらある一定の景色を見せ時に大きな変化によってその場所の景観を一変させる そんなイメージによってここに一つの庭が出来上がった。
市原 慶子|ICHIHARA Keiko
covered
-----H2680×W5500×D8500(mm)
オーガンジー、刺繍糸-----
人は皆、決して一人だけで生きているのではなく、 それぞれの日常において常に他者との関わり合いの中で生きている。 そしてその日常のなかで不意に訪れる出会いによって、 人と人のつながりは無限に拡がり複雑な景色を織成していく。 この空間では鑑賞者が刺繍をされた一つ一つの手形から垂れ下がる糸に触れ、絡まることで、 私の思う人と人の在り方の一つの形を示すことができたらと思いました。 また、このような人と人の在り方をテーマとし考えていく上で、 ウィリアム・ブレイクの詩は一つの示唆を与えてくれていたように思います。 一つぶの砂に一つの世界を見 一輪の野の花に一つの天国を見 てのひらに無限を乗せ 一時のうちに永遠を感じる ウィリアム・ブレイク『無垢の予兆』より
太田 大翔|OHTA Hiroto
かわず
-----H3500×W8000×D5500(mm)
ダンボール、オイル-----
この作品で目指したものは「日常」が「日常」を超えること。 僕たちは普段、あらゆる種類の情報を無意識的あるいは意識的に自分にとって必要なものと不必要なものに分け、 前者を取り入れ、後者を排除しながら生きている。 このような関係にズレを生じさせる。 見ているようで見ていなかったものや 見ようとしていなかったものがあえて意識させられたとき、 見慣れた「日常」は歪み始め、そこには新たな「日常」への扉ができる。
児玉 佳子|KODAMA Yoshiko
側面観
-----H3000×W2000×D15000(mm)
落ち葉、ワイヤーメッシュ、蛍光灯、レフランプ-----
街中を歩いていると、限られた場所で個人が創り出した空間が多く存在していることに気付く。 そこは極めて個人的でありながら極めてパブリックな空間で、その紙一重な曖昧さに魅力を感じる。 私はその空間を、その人の世界観が凝縮された空間として、”庭”と呼んだ。 この場所は、普段採光のためだけに存在しており、目立つことはないが、発見してからじわじわと伝わってくる魅力がある。 空地の不思議な磁力だ。しかしそれは人(私)がそこを見てこそ生まれた魅力であり、誰も見なければただのドライエリアだ。 この場所にあり得難いものである落ち葉は、この場所にあることでこの場所と共に存在感を増し、 目立たずはかない存在だったその単体は人に見られることで一つのの大きな力をまとい、 地上レベルにまで力強く立ち上がる。 空地の不思議な磁力と、その場所の力を映す”庭”、そして”庭”に導かれる場所。 人はただの傍観者だ。 しかし人が見ることで”庭”は意味を持ち、人の解釈が入ることで場所の力は増大する。
津田 翔平|TSUDA Shouhei
( )
-----H6600×W5000×D13100(mm)
ワイヤー、アングル、ロープ、バックル、ターミナル、バー-----
人間 ノイズ 世界
山崎 悠華|YAMAZAKI Yuka
隠れた時間
-----H2500×W3000×D3500(mm)
コピー用紙、オーガンジー-----
自分が美しいと感じるもの 魅力的で心ひかれるもの それは数えることができず 記録することも困難でした 形にとらわれることなく変化する時間を みずから体感することで表現しました。
大学院2年
太田 遼|OHTA Haruka
風を観たかい? - Have you ever seen the wind ? -
-----H2700×W9600×D9600(mm)
木材、窓サッシ、石膏ボード、エアコン、断熱材、etc...-----
大学への30分の道のりを自転車に乗って走る。 過ぎていくのは、建売住宅街やコンビニ等チェーン店の並ぶ広めの道路沿いのような 何の変哲も無いどこにでもありそうな風景だ。 大学へ着くと、僕がアトリエとして使っている教室へとまっすぐ向かい、 いつものモノたちに囲まれた僕の机でドローイングを描いたりスタディを作ってみたり 友達とくだらない話をしたり。 僕の日常だ。 こんな当たり前の日常の中で、僕は「風景」について考えていた。 東京近郊の建売住宅で育った僕にとって、郊外特有のどこにでもありそうな街の風景がコンプレックスだった。 「ここの風景」を自分のアイデンティティとして愛せない憂鬱感。 僕の風景研究はそんなことから始まっている。 しかし、風景とは書いて字のごとく、「風」という目に見えないものをも「観る」という概念であり、 だからこそたとえ同じ場所でも違う風景になる可能性があるはずなのだ。 それは言い換えれば、場に対して独自の「距離」を持つことだ。 ここでいう「距離」とは、○○メートルといった数値化された距離ではなく、 「今日あの子とデートして距離が縮まったな」というような精神的な距離の事である。 そう考えると、日常の中で僕は今まで風景を見れていなかったのかもしれない。 場所に対して30分という距離でしか関わっていなかっただろうし、 「風」を観ることも無かったように思う。 風景はあらかじめそこにあるものではなく、僕ら側の感情に大いに関わるものなのだ。 僕が風景を求めなければそこには風景は存在しない。 今回の作品は、修士研究「風景を求めて」の集大成である。 ある建物の1Fピロティの一角の、本来そこには何も無かった場所の4方を壁で囲い、 文字通り形を与えた。 その壁につけられたドアから中に入ると薄い教室のようになっている。 1つ目の角を曲がると、そこには机やドローイング、つけっぱなしのラジオなどのモノたちが。 僕のアトリエが再現されているのだ。 それらをやり過ごし2つ目の角を曲がると、壁につけられた窓と対峙することとなる。 そう、この薄い室内はコの字型をしており、この窓からようやく内側を見れる仕組みなのだ。 しかし、その先はなんと吹き抜けになった中庭のような屋外空間なのである。 「中庭」のドアはどこにつながっているか分からず、 そのまま残された元々の一角のようでも作られた場のようでもあるこの「中庭」へは、行くことができない。 この作品はあくまでも日常の掛け合わせだが、そこに違和感と「ここどこ?」感、 また、行きたくても行けない「もどかしさ」とともに、 (なんてことない)風景をみるきっかけとなることを目的とした。