学部4年
荻田 波留子|OGITA Haruko
a nonfiction in a fiction
ショートシネマのようにストーリーを持つ空間。 この作品を体験する人がそれぞれのストーリーを感じ、それぞれのリアクションを生みだす。
木村 恒介|KIMURA Kohsuke
ふと見ているもの
-----H4000×W5000×D5500(mm)
都市の場所性の希薄さ。 越後妻有トリエンナーレで強く感じた事である。 その事を考えながら街を歩く。 目を閉じてしまえばどこにでもなってしまうような景色。 空気の匂いも、空の色も、街の雑音も。全てがどこにでもある景色。 その中で、場所性というものをさぐり出す。 そんなものが残っているのだろうか。 自分がいる地面に目を向けてみる。 空を見上げてみる。 そこに見えるかすかなテクスチャー。 それらから連想される自分の中でのイメージというもう一つの場所。 それを重ね合わせる事で、自分なりの場所性を造り上げていく。 それは、日常で誰もが目にするふと見ているモノ。当たり前の景色が実はその場所にとって大事なモノだったりする。 Special Thanks to 後藤 正洋 (武蔵野美大 建築 3年) 佐賀 亮平 (武蔵野美大 建築 2年) 永井 律子 (武蔵野美大 工デ 2年) 松崎 友江 (武蔵野美大 工デ 2年) 林 咲季枝 (武蔵野美大 工デ 2年)
古曵 雄二郎|KOBIKI Yujiro
介在する皮膚
-----H2600×W30000×D2(mm)
石鹸、澱粉糊、ポリカーボネート、他-----
皮膜ごしのコミュニケーション。 『触れる』という行為を省略しモノ・場所・そしてヒトとあらゆる事物へのアクセスが可能な世界。 本質とわたしたちの間に介在する皮膚。
斉藤 桃子|Saito Momoko
環
今まで生きてきた中で、私は目に見えない人やモノとのつながりを感じます。 例えば、とても親しかった叔父のことが気になり電話をしたとき、叔父はちょうど息をひきとったところでした。 そして、叔父からもらった私の愛犬ミイはその後を追うように翌日息をひきとったのでした。 こういった、人やモノとの出会いや別れは偶然ではなく、それらの精神的なつながりが必然的に生んだ結果なのではないでしょうか。 そういった複雑に絡み合った人やモノとのつながりが、人をつくっているのだとおもいます。 人がその人やモノのことを思うことによって、それらは人の精神の中に存在することができ、 それぞれの人が思いをよせたモノ同士の関係が相互に影響を与え合っているのだと思います。 その精神世界の中でそれぞれの人が創造したやモノは複雑に絡み合っているのです。 人が愛着をもって着ていた洋服は、そういった意味で、それを着ていた人とつながっていると言えます。 その洋服を、一度「布」という状態にし、モノを用途から解放してそのつながりだけを取り出します。 それらを編み上げたものが「環」です。 「環」は「布」を媒体として人と人を実在する世界のなかで結びつけています。 そしてこれは精神世界と同じように風や雨、光といった外からの影響によって刻一刻と姿を変えて行くのです。 「環」は、いわば、この精神世界を現実の世界で視覚化したものなのです。
佐藤 貴志|SATOU Takashi
形/言葉 〜空想の移ろい〜
これは形と言葉と光を利用した空想誘導装置です。 空中に浮かぶ一本の槍のような形を見続けていても、そこに付加される言葉が変化すれば、その形が水平線に見えるようになり、鳥が羽ばたいている姿にもなります。 見ている人と形との関係を変化させて、そこに素晴らしい人間の想像力が潜んでいるという事を伝えます。 無意味な、あるいは理不尽な境界線を強制され、信じ込まされて、苦しんでいる人々が世界中にいます。 身近にもいます。 人間はそれを受け入れたり乗り越えたりする優しさと想像力を持っているのに、現実は違うから僕はそれがとても哀しい事だと思います。
嶋田 庸平|SHIMADA Youhei
生きられるための空間
僕は人の根源的な部分、言葉にならない感覚にうったえることのできる建築を目指しました。 それは計算されたスケール感をこえた妙な違和感の中にもあると思います。 それを私は廃材を用い等身大のスケールで建築をつくりました。 廃材を選んだのは古い材の中にねむる新しい木の存在に単純に感動したからです。
下平 千夏|SHIMODAIRA Chinatsu
鑑みる(かがみる)
私達は目に見える世界と見えない世界を生きている 眼に見える物質的な世界は何より不可視の世界に支えられている 不可視の部分、人間が人間であるために一番見落としてはならない世界をテーマに制作した 眼に見えない世界は昔から神話の存在により理解されてきた 不安や恐怖、疑問を取り払い、欲望のままに科学技術や情報化が進み 次第に神話の存在理由がうすれ、時代の変化とともに人々の記憶から離れていった しかし、その結果今不安や恐怖はなくなっているといえるのか? 人はどこかに何かに答えを求めようとする でもどこにも答えはないのではないかと思う すべては自分自身の中にある
田原 唯之|TAHARA Tadayuki
水滴
今 私の目の前にある広がる光景だけが日常なのではない かけがえのない無数の日常は この瞬間にも この世のあらゆる場に存在している あるときそれらは私の日常に沁みこみ そして悲しくも儚く消えていく だが確実に 私の中に何かが残っている
中津川 敬浩|NAKATSUGAWA Takahiro
木
流木で一本の木をつくる 破壊から再生へ それは人工物と自然物の間の場に存在している
中嶋 理恵|NAKAJIMA Rie
どこでもないどこか
砂場の上に、ジオラマの街がある作品。 砂場はライトボックスになっていて、砂の切れ目から光を発している。 ジオラマは、砂場の中心に向かってリアルな色彩になっており、砂場の外側に向かうにつれ建物も砂になり、だんだん崩れてゆく。 このジオラマの風景は、建物のある部分や、街並の部分的なまとまり、 看板の一つ一つなどは私が居心地よいと感じる場所のリサーチで心に残った風景だけれども、全体としてはどこでもないどこかである。 作品を作ったきっかけ 私は千葉県千葉市の中心より少し外れた、いわゆる郊外で生まれ育ったが、地元の風景がどうしても好きになれなかった。 それは、大型量販店やマンションの大きな箱のような建物が次々と建ってはなじみのある小さな町が変わってゆく、そんな風景。 そこで、私の居心地よいと感じる場所はどんなところなのかリサーチをはじめ、 結果、私の居心地よいと感じられる場所は、細い道にひしめく商店街だったり、路地だったりといった、合理的な経済活動の流れとは対極にあるような風景だった。 そしてそれらの多くは消えゆく危機にある。
大学院2年
越後 正志|ECHIGO Masashi
EMPTY
"場所のコンテクストを捉え、空間の「実体」を探求すること" 私の住む日本には、現代社会の表層に圧縮されたような視覚的イメージに対し、本来的に奥行きを備えていた空間の質があった。 先人の巧妙な手法による詩的な空間性の創造は、例えば竜安寺石庭に見られるような張り詰める静謐な空気、巧妙な石の配置によって生じる 人間と空間の緊迫した関係性、冷たく黒ずんだ床板の軋む音や畳の香りといったものが、体験者の知覚とあわさる形で表れている。 ここに見られる空間の密度は、単に物質同志の重なりのみではなく、幾つもの構成要素の関係性が体験者の知覚に表れることによって達成されている。 しかしながら、情報化が進んだ現代では、距離や時間はもはや意味をなくしている。 例えば人は、いつ、どんな場所においてもパーソナル・コンピューターの前に座ると、均等に配列された情報を、その人の目の前に、奥行きのない広がりを見せられる。 距離や時間が不確かな平面的な空間性は、人間の身体性を溶解し、本質的に存在するものの歴史性や審美的価値観を喪失させてしまっている。 距離や時間がそのように不確かなものであるのであれば、私にとってのアクチュアルな表現をめざすことは、人と対象(※1)、対象と対象、との関係性を構成している「余白の空間」に眼差しを向けることに必然的につながってゆく。 「余白の空間」とは、周りに存在する対象に対し、人と対象の余白に「存在」している空間である。 そして、その閉ざされた関係には、凝縮された空間性、詩的な質の広がりが、その内部に備わっていると考える。 私が「余白の空間」に意識を向けた時、その「空間」は人と対象に対して空間が存在する場所のコンテクスト(素材選びや手法、時間の体験など)との相互関係をつくり出す。 同時に、私は、すべての知覚の広がりをもたせる可能性を考えるようになった。 ゆえに、私が作品を通して目指すのは"日常が日常を超える瞬間"を見る者に体感してもらうことである。 (※1)人、モノ、環境、etc